browse

Nov 26
Permalink

――ひつぎの中にはどのようなものを入れたか。

 慎太郎さん 花以外は、トレードマークのヘアバンドとか、ぬいぐるみとか。遺言や遺書はなかった。

 ――破天荒な天才ぶりで愛された師匠だが、家族にとってはどんな父親だったか。

 慎太郎さん 皆さんがイメージされている立川談志とほぼ同じです。

 ――今年3月まで活動されていたが、療養中に高座にかける思いは。

 慎太郎さん かなり亡くなるギリギリまで、強く意欲は持っていた。ベッドから起きあがれないような状態だったので、行けないという現実は分かっていた。

 ――人生で最初で最後と思うほどべったりしていたとおっしゃった。こんなにジェントルマンかと思ったというのは、弓子さんにとって、父親としての談志師匠は違ったイメージなのですか。

 弓子さん おしゃべりで、毒舌の父が一言も口がきけなくなるということは、それはそれは切なく、いじらしく、声を失わなければ味わわなかった思いはもちろん、すごくたくさんあったと思う。それ以前の父は、破天荒で子供の頃から、テレビと家で言ってることは同じ。まったく外と家と変わらなかった。ただ声を失い、自分のことができなくなって、要介護度5になって、なってみないと分からない思いは、双方にあったと思う。

 ――師匠自身が言葉にならないながらも変わったというのは、どういう時に感じたか。

 弓子さん 勝手な人だったのが、我慢をせざるをえなくなる。吸引や、してもらわないといけないことがたくさん発生するわけですから。人にお願いすることは、しゃべれてたらなかっただろうね。(病状が進んで)食べられなくなったが、食べたいというより、しゃべりたいという方が多かった。

 ――小さい頃からのお父さんと、亡くなる直前のお父さんと比べて変わったか。

 慎太郎さん しゃべれなくなってから変わった。

 弓子さん ある意味、なかなか死ななかった。

 慎太郎さん 力強く生きていた。

 弓子さん 強さも見せつけられたね。

 ――父親として、家族にとってはどんな存在だったのか。

 慎太郎さん 今思うと、家族孝行の父だったと思う。意外かもしれないが、結果的にそうだった。医師から病状を知らされてから、気持ちの整理をする時間もありましたし、時間を十分与えてもらい、家族が苦しまないように、人生成り行きかもしれないが、悲しまないように。死に様が見事だったと思う。家族にとっては、すごい父親だったと思う。

 弓子さん 本人はふとした病で死にたいと言っていたので、あの頑張りは、私たちのためにしてくれたのだと思う。

 (談志家族会見<4>に続く)